礼拝からのメッセージ
礼拝からのメッセージ
◆24年11月17日出エジプト記19章1~9節「恵みの契約」
◇独裁者は、オレ様はえらい、オレ様には神さまがついていると考えるようです。この人たちのおかげで神さまが安っぽくなりました。◇昔、集落同士のもめごとから戦いになったとき、自分だけの神さまに助けを求めたのでしょう。でも、アブラハムの神さまとイサクの神さまは同じで、その神さまが本当の神さまで、天地すべてを造られた神さまだ。こんな風に、本当の神さまが分かってくる歴史があったはずです。その歴史を逆にして、大昔の安っぽい神さまにしてはならないのです。◇イスラエルの人々は、エジプトの国から解放されて出発しました。でも、イスラエルの人々はダメでした。文句ばかり言っています。しかし、神さまは語ります。「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。」◇自分はダメだと分かる必要があります。ダメでも、豊かな恵みを神さまから頂きました。だからこそ神さまを大切にして、契約を守るのです。神さまを一生懸命愛することは、隣人を愛することと繋がります。隣人を愛することこそ平和をもたらします。謙虚に御導きを祈り求めるように。ひたすら主を愛するように。祈りましょう。
◆24年11月10日創世記13章1~18節「アブラハムの子」
◇主なる神さまはアブラハムに言われました。「この土地すべてをアブラハムの子孫に与える。子孫は繁栄する。」ユダヤ人は言うでしょう。「アブラハムの子孫とはオレたちのことだ。この土地は全部オレたちのものだ。」◇ところが、ユダヤ人に向かって、洗礼者ヨハネが言ったのです。「アブラハムの子なんてとんでもない。マムシの子だ。ちゃんと悔い改めをしろ。その罪から離れるのだ。」◇昔々は自分専属の神さまを考えていたように思えます。「すべてを創造した真の神。」このように考えるまでは大きな進化が必要だったのです。本当の神さまはすべてを造られたのだから、戦争で勝たせてくれるような安っぽい神さまではありません。本当の神さまを考えると、民族は関係なくなります。◇でも、本当の神さまはすべてを超えているので、人の考えを超えて、こちらには理解できるはずがないのです。◇ガラテヤ書3章7節です。「だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。」◇低い思いを持つ必要があります。神さまの真実によって、導いて頂きたいです。神さまの真実を受け取る信仰が欲しいです。私たちもアブラハムの子にならせて頂きましょう。
◆24年11月3日イザヤ書44章6~17節「偶像は堕落」
◇十戒の第1と第2は、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」、「あなたはいかなる像も造ってはならない」です。ところが、シナイ山でモーセが主から十戒を受けている間、人々は金の小牛の像をつくってお祭りを始めました。偶像をつくることは堕落なのです。◇ダビデのイスラエル王国の土地には、もともといろいろな神さまがいました。もとからいる神さまは生活に根付いて強いのです。◇イスラエル王国は北と南に分裂し、北イスラエル王国はアッシリアに、南のユダ王国は新バビロニアに滅ぼされます。このとき、エルサレムの神殿には、他の国と仲良くやっていくため、その国の神々の偶像が置かれていたのです。◇木を使ってたき火をし、同じ木を使って偶像をつくって、それを拝む。それが神でないことは、つくった人には分かっているはずです。◇テレビでロシアのプーチンが、軍の指導者に主イエスの顔を描いた絵を渡している場面が出てきました。とんでもないことです。◇自分の罪を忘れていたら、自分に都合の良い神さまを考え出していることになります。私たちが信仰によって義とされているということと共に、自分の罪を忘れてはなりません。堕落を避けるよう、祈り求めましょう。
◆24年10月27日箴言8章22~31節「すべてを造った主」
◇旧約聖書で「主」とは父なる神さまのことです。父なる神さまはすべてを造られました。これが私たちの信仰です。今日の聖書では、その働きよりも前に「私」が生まれていました。この私とは「知恵」です。◇この創造物語では、「知恵」も創造の働きを助けています。地の上には丸天井の天が造られ、その上にも水が上がりました。◇現代の知識では、138億年前にビッグバンが起こり、物質も空間も時間も始まったのです。科学によってこうしたことがどんどん分かってきました。でも、分かっていないことが減ったわけではありません。「今までの考えは間違っていた。」と分かることがあります。あるいは、新しい問題が出てきます。◇しかし、すべてを造られた父なる神さまと私たちの関係は、科学では分かりません。神さまが凄すぎるからです。分かるはずがありません。◇ヨハネ福音書は、父なる神さまと一緒におられた方、イエス・キリストから神が示された、と証言しています。主イエスが「アッバ父よ」と呼びかけられた神さまのこと、分かることもあるはずです。神さまとの関係を私たちも教えていただきたいのです。それを求めて祈り続けましょう。
◆24年10月20日1コリント書9章1~27節「節制を」
◇パウロにはテント造りの仕事があり、フィリピの教会から支援も受けていたのです。すると、コリント教会の人は「安あがりな先生だね」と思い、あまり尊敬しなくなっていきます。ギリシアでは、コンペで勝った弁論家だぞ、知識が豊かだぞ、となると高い給料を要求するのが当たり前だったからです。◇パウロは復活のキリストと出会った使徒であり、コリントの教会を建てました。だから、パウロには色々な権利があるはずです。◇聖書のあちこちにあるように、働く者が報酬を受けるのは当たり前です。でも、パウロはその権利を使いません。福音を告げ知らせることは、そうせずにはいられないことなのです。◇パウロは相手に合わせて話し方を変えています。ユダヤ人なのかギリシア人なのか、律法があるのかないのか。そのようにするのは、キリストに倣ったことでした。◇語る者も聴く者も分かっていることはわずかです。自分を鍛える必要があります。共同体のためにも節制が必要なのです。◇強い人は謙虚に、弱い人は頑張って留まって欲しいのです。今の私たちはどうでしょうか。やはり、導かれながら進んでいくことが大切です。絶えず、御導きを祈り求めましょう。
◆24年10月13日1コリント書8章1~13節「知識よりも愛を」
◇神殿の隣にレストランがありました。料理は偶像に供えられた肉です。ギリシア人は、その肉を食べて楽しみ、交流を深めるのが当たり前でした。でも、ユダヤ人の立場としては、偶像に供えられた肉を食べてはいけません。◇すべてを造られた父なる神さまはただ1人です。イエス・キリストは唯一の主です。ローマ皇帝などは主ではありません。偶像の神はいないのだと考えると、そんなレストランで食べてもかまわない、となります。◇一方では「知識を持っていて、何を食べても良い」と考える人、もう一方では、「あの神さまに捧げられた肉だ」と考える人がいるのです。食べても平気だと思うのは強い人です。弱い人はそうではありません。弱い人は、キリスト教徒になる前に、あの偶像を信じていた人です。◇強い人が、弱い人を傷つけてはいけないのです。知識では足りません。はじめに神さまは私たちを愛してくださいました。その愛が必要なのです。◇心配していったらきりがありません。でも、いつの間にか信じ込んでいることもあるでしょう。偶像として、避ける必要のあることはたくさんあるようです。自分の足りなさを知り、聖霊の御導きを祈り求めましょう。
◆24年10月6日1コリント書7章17~40節「そのままで」
◇「キリスト教徒になったときのままで」がポイントです。でも、「そのままでなくてはならない。他の選択肢はあり得ない。」という意味ではなく、自分で判断する必要があるのです。◇割礼を受けているユダヤ人はそのままですが、割礼を受けていない異邦人は、割礼を受けてユダヤ人になってはいけません。教会は民族の境を越えた共同体なのです。ユダヤ人のまま、異邦人のままというのは非常に大切です。◇借金が返せなくて奴隷になってしまった人は、奴隷のままで良いのです。身分はどうでも良いのです。主キリストによって、奴隷から解放されました。同時に、主キリストの奴隷となったのです。◇結婚していたら離婚してはならず、ひとりなら結婚しないのが良いです。現状のままが良いというのは、終末が近いと考えていたからです。現代ではこれは考えにくいことでしょう。でも、御旨が成る、神の国が来るという希望があります。◇「そのまま」というのは、キリスト者になったときのままということなのです。そのときの思いを失ってはなりません。召されたときのまま歩むのです。真の力を頂きながら、主に向かって歩み続けましょう。
◆24年9月29日1コリント書7章1~16節「禁欲ではなく」
◇コリント教会には両極端の風潮があったようです。放縦に走る人たちと禁欲を尊ぶ人達でです。ギリシアでは禁欲主義は強力で、教会の中でも、終末が近いという風潮から性的関係はない方が良いと考えられていました。しかし、パウロははっきり言います。性的関係は悪ではないのです。「夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。」男性中心ではなく男女平等で、夫婦同士のことが大切なのです。◇主イエスは離婚を禁じておられます。しかし、パートナーを取り替えるような離婚は禁じていても、離婚そのものは認めているように思えます。パートナーから暴力を受ける場合、離婚しなくては危ない、といったこともあります。◇夫婦のうち一方がクリスチャンになった場合、パートナーの思いを大切にすると共に、信者の教会生活を大切にするべきなのでしょう。◇これが正解だとは決めつけられません。賜物に従って生き方が違います。私たちは御導きを頂きながら歩んでいくべきです。