礼拝からのメッセージ 

 

 

24年4月28日ヨハネ福音書15章18節~16章4節「憎しみに勝つ」

 

◇ウクライナでの戦争などから世界中に戦争が広がる心配があります。「オレ様は偉い。」「オレたちの民族は偉い。」と考えるのが一番いけません。◇聖書の時代にも似た雰囲気がありました。主イエスは言われます。「あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。」主イエスに対する迫害が先で、弟子たちに対する迫害は後になります。神様のこと、その一人子である主イエスのことがわかっていないのです。◇教会の人々は迫害を受け、ユダヤ教の会堂からも追放されます。ローマ帝国の中で、キリスト教徒は変わり者でした。そこで、何か悪いことが起こったら、キリスト教徒のせいにします。キリスト教徒は、殺されるようにもなりました。◇教会はキリストに属するものです。本当の人になり、最底辺のところに来られた方のものです。◇主イエスは、先立ってこのような問題に立ち向かわれました。私たちには、弁護者、聖霊が遣わされます。上からの御導きを祈り求めましょう。

 

 

◆24年4月21日ヨハネ福音書21章15~25節「色々な歩み方」

 

◇復活の主イエス・キリストは、シモン・ペトロに「私を愛しているか」と尋ねられます。愛しているとの答えに対して、私の羊を飼いなさいと言われます。この会話は3回繰り返されます。◇主イエスが捕らえられて大祭司の庭で尋問されたとき、そこに潜り込んでいたシモン・ペトロは、見つかって「あの人の弟子だろう」と言われます。それに対して「違う」と3回も言ってしまった失敗がありました。それをナシにするための3回だったのでしょう。◇さらに、愛するという言葉の使い方から、主イエスがシモン・ペトロに寄り添っておられると感じられるのです。◇シモン・ペトロは殉教の死を遂げたと伝えられています。これに対して、主に愛されていた弟子は、殉教せずに生き延びます。さらに、ヨハネ福音書執筆につながります。◇私たちは、主の愛に応えて愛することが基本です。この応え方はいろいろです。私たち一人一人にピッタリな歩み方は何でしょうか。その歩み方を祈り求めて参りましょう。

 

 

◆24年4月14日ヨハネ福音書21章1~14節「新しい出発」

 

◇ルカ福音書と使徒言行録は、弟子たちがエルサレムに留まり続けて、教会が進んでいく様子を描いています。ヨハネ福音書では、始めはエルサレムに居たのですが、元気がなくてガリラヤに戻っています。◇シモン・ペトロたちは漁に出かけます。けれどとれません。明け方、岸に主イエスが立っておられるのですが、弟子たちははじめ分かりません。主の指図で網を下ろすと大漁です。主イエスだと気がつきました。◇ルカ福音書では、シモン・ペトロたちがはじめに主イエスに召されたとき、同じように、主の指図によって網を下ろし、大漁だったのです。すごい人に出会った。さあ従っていこう。◇人生に浮き沈みがあるように、信仰生活にも浮き沈みがあります。信仰の高揚した気持ちを持続すことは難しいです。◇弟子たちは主と一緒の食事をします。礼拝と同じです。◇主イエス・キリストが私たちに先だっておられ、私たちを待ち、言葉をかけ、道を示し、力を与えて下さいます。力を頂きながら、共に進んで参りましょう。

 

 

◆24年4月7日マタイ福音書5章13~16節「地の塩、世の光」

 

◇今年度は「地の塩、世の光」という聖句を掲げます。私たちは地の塩、世の光として役に立ちたいです。◇塩は大切です。聖書はこう語ります。「あなたたちこそ人の住む世界で大切だ。大きな使命を負っている。この使命を受け取らなければ、役に立たない として捨てられる。味のなくなった塩として捨てられるのと同じだ。」◇光を掲げるのは、明るくなるためであり、父なる神さまがあがめられるようになるためなのです。正しい生活をしていても、隠れていては十分ではありません。反対に、ただ目立つだけでもだめです。◇教会が繰り返して失敗してきた歴史があります。自分が、自分の教会が輝くようにとして失敗してきました。教会が人を殺し、戦争をしてきたのでした。偉すぎたのです。いえ、愚かすぎたのです。しかし、いじけることはありません。導きを頂いて良い歩みをしてきた歴史もあるのです。◇この日出の町で、何をしたら良いのでしょうか。御導きを祈りつつ歩んで参りましょう。

 

 

◆23年3月31日ヨハネ福音書20章1~18節「復活の主と会って」

 

◇ヨハネ福音書によると、日曜日の朝早く、マグダラのマリア一人が墓に行きました。墓の入り口をふさいでいた石がないので、主イエスの遺体が盗まれたのだと早合点します。◇知らせを聞いたシモン・ペトロと主に愛されていた弟子とが、墓に走って行きました。墓は空っぽです。主に愛されていた弟子は、どのような形かは分からなくても、主が死を克服されたことは信じたのです。◇この二人が帰った後、マリアは復活された主イエス・キリストと会いますが、主だと分かりません。名前を呼ばれて主イエスと分かります。一変します。まさに、悲しみが喜びに変わった一瞬です。◇弟子たちのことを「私の兄弟たち」と言われます。主イエスと父との関係は、弟子たちと父の関係でもあるのです。◇私たちも復活の主イエス・キリストとお会いできます。私たちも、復活を証言したマグダラのマリアのように、勇気を持って歩み出したいです。復活の主とお会いして、新たな歩みを始めさせて頂きましょう。

 

 

◆24年3月24日エレミヤ書18章1~11節、ヨハネ福音書6章28~40節「抜き、壊し、滅ぼす」

 

◇エレミヤ書の言葉は厳しめですが、これから起こる災いも、主なる神が担って下さるという事です。◇『日出教会 百周年記念誌』にこうありました。「新装の会堂に、吉良氏着任以来3年にして会員倍増と言う躍進ぶりであった。しかし間もなく太平洋戦争が始まって、集会出席数減少の一途をたどり、礼拝出席数は、会衆2~3名という淋しさが続いた。」この様に私たちは変わっていきます。でも、その人間を変わらず愛していて下さる主なる神は、御自身の計画をもって、私たち人間を導かれるのです。◇群衆が「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と問うとき、人間の計画が神の計画から遠ざかり、御心が分からなくなります。◇「自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである」というイエス様の御言葉は、ゲッセマネでされた祈りと同じです。今、受難節を送り、十字架へとひたすらひたすら近づいている私たちが聞くに相応しいこの御言葉を、私たちもひたすら祈ってまいりましょう。(別府不老町教会牧師 尾崎二郎先生)

 

 

◆24年3月17日ヨハネ福音書12章20~36節「主は上げられる」

 

◇「主イエスが上げられる」とは、主イエスが十字架に上げられることと天に上げられることとをあわせて指しています。十字架の死と復活と天に帰られることを一度に言っているのです。受難の予告です。◇十字架につくことを前にして、「心騒ぐ」と悩んでおられるようです。これは他の福音書にあるゲッセマネの祈りに通じます。けれど、ヨハネ福音書の主イエスにはためらいがありません。◇信じる者が皆、人の子、主イエスによって永遠の命を得るためです。主イエスは言われます。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」羊飼いが羊のために命を捨てる、と言われたことに通じます。信仰共同体は、主イエスの死の実に当たります。主イエスを受け入れる者は、主イエスと繋がり、さらに父なる神さまと深くつながるのです。キリストの受難によって、私たちは支えられており、歩み続けることができます。しっかりと受け止めましょう。

 

 

◆24年3月10日ヨハネ福音書12章1~8節「香油をささげる」

 

◇ラザロ、マルタ、マリアという名前はルカ福音書にもありますが、全く別の話になっています。また、主イエスに香油を注ぐという話はどの福音書に書かれていても、同じではありません。◇ヨハネ福音書では、ラザロは主イエスによって生き返らされました。旧約聖書には、大預言者エリヤ、エレミヤが死んだ子どもを生き返らせた話があります。大預言者が現れたのだと、主イエスの評判が膨らみます。こうしてエルサレムに歓迎されたのです。◇主イエス達は夕食に招かれます。ラザロが座っていて、マルタは給仕をしています。マリヤは、小さいペットボトルくらいの香油を持ってきて、主イエスに全部注ぎました。300万円ぐらいに当たります。常識外れです。とんでもないことだと考える人がいます。けれど、主イエスは「私の葬りの準備だ」と言われます。◇十字架の重さを考えると、どんな感謝も取るに足りません。でも、受け入れて下さいます。少しでも喜んで頂けるように努力しましょう。